同情と差別は同じ ヒトが元気になる福祉が必要

●いたく同情されるがん患者になって知ったこと
35歳で乳がんになった私は、坊主頭の抗がん剤治療中によく、「若いのにがんになったりして気の毒に」とよく同情されてました。ホントまぁかわいそうにと。健康な人からも言われたし、年取ってからがんになった人からも言われてたなぁ。そんなふうに同情されると、病人独特の劣等感をさっとなでられるような気がして、イヤ~な気分になり、よく怒っていました。
病を得た当初、私は気の毒がられる身になったことにずいぶん困惑したわけですが、
はたと気付いたことがありました。同情と差別は表裏一体なんだな、と。だから腹がたつんだ、と。人が「若いのにがんになって気の毒」と同情する時、「あなたは私より死に近いところにいる」と思っている。だから「大変だね。お気の毒に」となる。そうなんだな、同情と差別は表裏一体なんだ、だから腹がたつんだ私、と思った。
●自分とかぶって見えた
でもこの同情と差別が渾然いったいとなった感じ、がんになる前の自分自身とかぶって見えてくるようになりました。私はがんになる前、ホームレスや母子家庭のママから生活にまつわる相談をよくうけていました。同情と差別は同じだなどと考えたことはなく、まったく無自覚だったので、彼らとともに闘っているつもりが、実のところは、同情し差別していたのではないか、とそう自省するようになりました。同情され同時に差別され、区別されて、あなたには責任ないよとささやかれれば、人はどんどん弱くなる。自尊心を失う。無力感がつきまといさらに弱くなる。スポイルされてしまう。福祉や保健、医療分野の政策にはこうした重大な問題が潜んでいるのではないかと考えるようになりました。
●自力を奪わず 自己責任だけを押し付けない福祉を
今年度、市議会で私は、環境や福祉分野を重点的に審議する常任委員会に所属していたので、来年度の平塚市の一般会計予算を審議する際、この分野を重点的に調査していました。つくづく福祉や医療政策を論じる難しさを痛感しています。自力を奪わずにかつ自己責任だけを押し付けたりしない、そんなセーフティネットのあるべき姿を少しずつ考えていきたいと思っています。

↑ 障害を笑い飛ばして楽しんじゃう、福祉施設・スタジオクーカの展覧会で、先日。